GSの後・・・

tanshin2005-01-10

82年から2年程GSに乗っていたが、度重なる請求書に薄給サラリーマンの給与は十分ではなく、新たに大蔵大臣が加わったゆえ『もすこし、マトモな車に』という事でワンダー・シビックの新古車に変えた。GSは嫌がるホンダのディーラーに15万円で引き取られていった。。ワンダー・シビックは1〜2年乗っただろうか?ランプがポップアップする、アコード=ビガーが発売され、子供が生まれるという理由で、ドンドンおとっつあん仕様の車に実用車は移っていった。この間例のPeugeot204は東京の実家にあり動かさないものの所有し続けていた。いつかレストアと思って。そんな自動車趣味期間の空白が結婚〜子供誕生〜東京へ転勤の間4〜5年あっただろうか。

東京へ転勤後の90年にドイツへ転勤が決まった。当時(今もか?)ドイツの日本人街といえばデュッセルドルフで7000人位住んでおり、人口の1%が日本人という都市だったしドイツ語が話せなくとも何の不便も感じない街だった。90年の1月にアンカレッジだったかモスクワ経由、デュッセルドルフ〜フランクフルト行きJALに乗ってDusseldorfに赴任した。

欧州にはそれまでプライベート、仕事で数回行っていたので新たな興奮も無く、新しい仕事に慣れることと3ヵ月後に渡欧してくる家族を迎え入れる準備で忙しかった。赴任先のオフィスには日本人は10人+いたが、ベンツ所有が日本人出向者の定番化していた。その中で若手のO君、同い年のI君は、アウディ100とVWパサートに乗っていたがドイツ車が当たり前だった。

僕は赴任前から発売されて間もなかったPeugeot405 Breakか505と決め込んでいた。僕がフランス車を買うと聞くと、ドイツ人の同僚から『ほんと、お前こんなんで良いのか?』と散々言われ当惑した。ドイツ人は“ドイツ車一番”ということだったのだろう。

オフィスはデュッセルドルフから車で20分位の所にあり、当然車でのコミュートが当たり前になり、どこへ行くにも車という生活になった。そのデュッセルドルフ近郊で、思いもかけず3台のA110を、場所時間が異なるときに見かけ『もしかして買える??』と期待が膨らんだ。ドイツで古い車を探すとなると“Old Timer”しかなかったと思う。その後“Alpine Post”というクラブ雑誌を知ることになる。

Old Timerで探し始めて数ヶ月経っただろうか?Herr Brawnという売り手が3〜4台のA110を売りに出ている事を知る。赤1600VB,1300VC改(5 Alpine Engine),黄1600VC,青1300VC,スペイン製1400、そしてR5 Turbo-Iが彼の車庫に納められていた。

写真は、90年に車を見に行ったときに撮った写真。塗装から何からオリジナルのボロボロの1300VC=そして今はドイツ、ルクセンブルグ、米国経由で日本にある。