やっとPeugeot 204

tanshin2004-12-16

伊勢丹の駐車場で2台の目Peugeot204を目にしたのは大学2年の頃と思う。その車はベルギーのBの字マークが貼ってあり、ベルギーから持ち込まれた車であろうことは想像できた。その頃似非国マーク、例えばドイツ車だったらD、英国車だったらGB、そしてフランス車だったらFのマークを貼るのが流行っていた。でもBなんて貼る奴はいなかったから本物に違いなかった。そのボルドー・カラーのワイパーのところに実家の電話と僕の名前を書いた紙を挟んで置いた。『売ってください』。でも何の連絡も無かった。数年後足立区のその車のオーナーお宅にお邪魔することになる。

204への愛がつのりCar Graphicの売買欄に『Peugeot204買いたし』と出したら、世田谷のK氏から電話が早々きたが『どうしてPeugeot204が欲しいの』という電話で、日本では当時珍しく数十台しか多分無かった車を欲しがる奴の偵察電話であった。その後何年も、K氏が亡くなるまで僕と15歳くらい離れたK氏とは車友達だったし、直すのを手伝ったり、部品を分け合ったりした。K氏の後、都内のお医者様、やはりKさんから電話があり、売る気のない声で『もしよかったら』と電話を貰い、足立区にある医院にお邪魔した。それは結構きれいなアイボリーの204でエンジンも一発でかかった。68年型ということであったが、68年登録の66年型でリアランプと計器盤が初期型だった。右ハンドルで英国向けを日本に新東洋企業が輸入したものだった。色も実はオリジナルは、ボルドーでデッド・ストックをアイボリーにして売られたらしい。

当時Peugeotなんてひどくマイナーな車で、フランス車といえばまずはCitroenで、RenaultもPeugeotよりずっと販売チャネルがマトモだった。最も今は夫々XXX Japonというメーカー系でチャンと販売整備網があるが、マトモとはいえ当時はどのメーカーのサービス販売網は町工場の寄せ集めだった。

大宮のYさんはPeugeot504の1.8リッター、広尾で見た外交員ナンバーのPeugeot404、代々木から参宮橋へ行く道で見た多分日本で一台しかなかった、アフリカの外交官が乗っていたPeugeot304の初期型、新東洋横浜でみたPeugeot404、そして世田谷のK氏のメタリック・ブルーの204、文京区の牛乳屋さんにあったアイボリーの204、田無のデュポンのからし色の204、甲府にあったレストア出来損ない204、大田区にあった古い203など沢山の今は消えてしまった古い古いPeugeotメモリーがある。

僕はやっと自分のものとなった204にジュヌビエーブという名前をつけようと決めていた。      

Bon Jour ! Genevieve




実家に行ったら、僕の204の写真があった。左は潰した部品用の204.文京区の牛乳屋さんから買った奴だ。

1976年3月